おはようございます。maisanaです。
これは続きの話であります。
相変わらず「ホモ・デウス(下)」と戦っております。
読んでは数ページ戻り、読んでは数ページ戻り。。。
ただ、前回同様、私の備忘録的な記事ですので、あしからず。
そもそもが私が○○主義という言葉が嫌いだから、人間至上主義とか自由主義って言われると理解する気力が衰えるのではないかと気が付いた。
なので、場当たり的に「主義」をwikipediaで調べてみた。
主義(しゅぎ)は、人、団体や政府が主張や行動の指針にする原則や思想である。
少し解決した。かもしれない。w
そしてもう1つの問題は、多めに出てくる歴史的な例え話だ。
特に戦争関係が多いように感じる。
はっきり言ってそこは嫌いだから、さらさらと読んでしまう。(せっかく理解しやすいように例えてくれているのに)
これも何か対処する方法があるといいなぁ。
今日も本に出てくるキーワードと共に勝手なことを書きます。
本に書いてあることと私が勝手に思ったことが混同されないように気をつけて書いたつもりです。
それではどうぞ。
自由な意思とは
突然ですが、あなたはあなたの自由な意思で物事を決定していますか?
今日のお昼に何を食べるか。
テレビはどの局の放送を見るか。
どのスマホを買うのか。
確かに自由な意思はあると
しかし、あなたが自由に決定したと感じている決定は、あくまで選択するときに欲望を反映しただけのことであって、あなたが自由な意思で決定したことではないのです。
とてもミクロな世界で考えてみれば、人間は1つの細胞でできているのではなくて何十兆個もの細胞でできている。
それらが電気信号を送りあって人間が活動するのだ。
なのでどんなに調べても「意思」なんていう摩訶不思議なものは人間の体の中には見つからないのだ。
実際、人が左右の手にスイッチを握った状態で脳スキャナーに入り、好きなタイミングでどちらかを押してもらう実験では、スイッチを押す前の本人が自分の意図を自覚する前にどちらのスイッチを押すか予測できるという。
つまり、脳のニューロンがたまたま発火して、そこから始まるランダムな信号によって決定をしているのだ。
ってなことが本書には書いてあった。
加えて、現代の科学ではこのような脳の電気信号を拾うことができるらしい。
読み進めるとわかるが、この辺の技術が進歩すると末恐ろしいことが待っているなぁ。
ここから先のことはぜひ、著者の言葉で読んでもらいたい。
この辺りはわからなくもない。
私が理系脳なのであろう、主義とかの話よりも科学的な話の方が納得いくし、理解しようという気持ちが湧いてくる。
自由な意思って何かを考えると面白い。
例えば水を飲むときに「それは自由な意思か?」って考えるとそうではないと私は思えるようになった。
飲みたいと思ったから、それはなぜ?
体が欲するから、それはなぜ?
って「なぜ?」を繰り返すと、たぶん科学的に突き詰めなくてはならなくなる。
そして、体のどこかの細胞が生きるために水分を摂取するべしって信号を発したからだという起源に至る。
テレビのチャンネル決定は自由な意思か?
それは体のどこかの細胞からたまたま発せられた信号が、その欲望となって出力されたに過ぎないと私は理解した。
こうやって人が何かを思いつくことは自由な意思ではなく、ランダムな電気信号であるってことを私自身の生活に当てはめてみると、私自身はなんとも非効率な電気信号の経路を進むもんだと思えてしまう。
私の細胞たちは優秀ではないのかもなぁ。
経験する自己と物語る自己
「意思」の話の次は「自己」だ。
本書では14度の冷たい水に手を入れる実験で語られている。
14度の水に手を入れた瞬間は苦痛を感じる。
今度は14度の水の後に16度の水に手を入れる。
それらが終わった後では、14度の水に手を入れただけよりも、14度の後で16度の水に手を入れた方が楽だったと記憶している。
16度も多少苦痛を感じるほど冷たいはずなのに。
これはピークエンドの法則として知られている。
人はピークとエンドの状態を平均して記憶するのだ。
だから、16度の水で終わりにすると少し楽だったように記憶する。
人が自分と思っているのは全て物語る自己であるとハラリ氏は述べる。
そして、場合によって、物語る自己は厄介な存在なのだ。
自分という人間の物語は素晴らしいものが良いと誰しも思うだろう。
経験する自己と物語る自己は密接に関係しているとハラリ氏は述べる。
実際、物語る自己のおかげで経験する自己が素晴らしいのものに変わる。
これは前の記事で触れたが、知識の話だ。
物語る自己が自分の感性を磨き、経験する自己にフィードバックする。
そのフィードバックを元に物語る自己を形成するのだ。
人は他の動物よりも少し脳のニューロンネットワークが細かいだけで、そもそもの原理は一緒なのだなと思えた。
私は人だけが意思や感情を持って行動していると思っていた。
しかし、私はこう思うことにした。
ニューロンネットワークが細かい、および、ランダムな電気信号が自分の意思や感情があると思わせていると。
そう考えると人間も神聖な存在ではなく、たまたま現在では脳信号が少し優れている生き物であるだけなのかもしれないということが納得できるのではなかろうか。
電気化学的処理は万能なのか
本書はしばしば近未来的な発想に感じられることが述べられる。
電気化学的な処置を脳に施すことによって、様々な事が行えると言うのだ。
集中力を高められるとか、うつ病を直すことができるとか、嫌なことのやる気を出すことができるとか。。
まるでSF「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のようだ。
↓気になる方はこちらもどうぞ
私は本業で電気化学を扱っている。
(脳には使わないが)
なので、電極とか出力とかいう単語には馴染みがある。
電気化学は化学の理論的な部分が反映されやすいと思う。
「こう操作するとこの値が出る」っていうのが実測値としてちゃんと出てくる。
もし人間が生化学的アルゴリズムをしっかりと反映するのであれば、電気化学的に人を操作するというのも可能である世界だと私は思う。
ただ、そのためには脳の仕組みを深く理解する必要があり、近い未来ではないことが想像できる。
私の自己
本書では自由な意思がないことと共に確固たる意思はないと述べられている。
つまり、自分の意思や自己は日々変わるものだし、物語る自己が美しいものになるように曲げられているものらしい。
私もそれを実感している。
この記事は、実は、何日にも渡って書いているが、その日その日で書こうと思ったことは変わってしまっている。
初日の自己と今の自己は絶対に一緒ではないと言い切れる。
私はそれで良いと思う。
こうやってこの本に対する物語る自己を育てていって、この本を自分なりに解釈していくのだ。
それでこそこの記事を書くことにした意味が達成できるからだ。
今日も明日もこの本への想いを育てていく。
それが心地良いのだ。
最後までお読み頂きありがとうございます。
結論もなく、何のこっちゃてな感じになりましたね。