研究者父さんの熟考ブログ

まいさなが通勤電車で遠くを見据える

通勤電車は考えごとするほかないよね~(゚∀゚) 勉強・教育・研究・育児についての考えごとを綴る自己ブランディングブログです

ホモ・デウスめ!よくわからないじゃないか!【雑記ブログ】

おはようございます!maisanaです。

 

今回は、雑記中の雑記です。

私の備忘録です。

 

今年に入ってからホモ・デウス上下巻を読破しました!

大分前になりますが、サピエンス全史 上下巻を読んで、著者ハラリ氏のファンになったのでした。

サピエンス全史らは、かなり読みごたえがある内容でサピエンスの起源を理解した気にさせる面白い本です。

そして、ハラリ氏の次の著作であるホモ・デウス 上下巻がやってきたのです!

すぐに買って読んだのはいいものの、なんだかよくわからない。

頭の中に何も残らなかった。いわゆる意味ぷーということですw

 

しばらく経って、やっぱり理解したい!と思い立ったので、ホモ・デウス下巻の2回目を読みはじめました。(なんでか下巻から読みたくなった)

まだ途中(どころか序盤中の序盤)ですが思い付いてしまったことをただただ書き出しました。

これによって私の理解が少しでも進めばよいのですが・・・

 

皆の思想は人間至上主義を残しているのか

それで気持ちが良いのなら、そうすれば良い。で考えるのが人間至上主義の基本だ。

なんともわがままな考え方なんだろうと思いました!

しかし、この考えは中間に過ぎず、現代の資本主義に向かうのにこのような考え方を経由したようだ。

 

元々、キリストの信者たちは聖書がすべてでありました。

知識=聖書×論理で成り立っていて、聖書に書いてあることから、考えを膨らませて物事を理解するのが一般的であった。

しかし、科学革命によって、知識=観察×数学に変わったとハラリ氏は説明している。

また、そこから物理的現象ではない倫理的な部分については知識=経験×感性となったと述べられた。

経験することが感性を育む、感性を育むことでこれまでよりも高みの経験を求める、するとまた感性が育まれるといる循環で成長していく。

これにより人として深みが増していくし、その知識は1つの経験を違う体験に変える。

お茶に知識がない人は、紙コップの無料に近いお茶とこだわりの器でこだわりの茶葉でいれたお茶の違いを体感することができない。とハラリ氏は述べている。

 

こうやって少しずつ人々の考え方が変わっていって、今の資本主義を基盤とした社会が成り立っている。

現代社会では皆が皆の幸福を目指していると私は思うのです。

ただ、自分を犠牲にしてまで行動に移せる人は少ない。

私もその一人だ。

ここでいう「皆」という言葉は、TPOに大きく影響する。

基本的には社会全体の幸福を願うが、自分や親族が不利になるなら賛成できないってことは皆が思うことだ。

 

やはり「それで気持ちが良いのならそうすれば良い」というのは根本に残っているのではなかろうか。

少なくとも私には残っています。

誰もがある程度のわがままに生きているのではないだろうか。

 

人はとにかく平等を目指すのだが・・・

政治は将来の保証と皆の平等を目指すための議論をします。

世の中の人々とか国民とか市民とか、大多数団体の中で全員が納得する回答を導き出すのは不可能であると私は思うのです。

だから、昔から国会議員が年中激しく、時に下らないことで議論を激しく戦わせている。

これは未来永劫続くだろう。

どうやっても全員が納得する法律や制度に持って行くことはできないからだ。

 

だからこそ議員という代表者を選任して、政治活動を行うことに意味が生まれるのではないでしょうか。

例え話で一番わかりやすいのが、男女平等についてですね

「男女の扱いは平等であるべきだ」という主張が男女平等の根幹だと思います。

これは元々、男尊女卑があったからこそ議題に上がるのではないだろうか。

女性の立場を男性と同等にしろって主張だ。

 

私はこの議論も永遠に終わらないと思う。

はじめから差があったとお互いが感じていた過去があるから、女性の立場を上げる、または、男性の立場を下げるという主張が生まれる。

全くの平等にできたとき、男性は損したと感じる意見が多少なりとも出るはずだ。

なぜなら少なからず現状よりも立場が下がっているから。

 

ただ、私はこの議論は終わらなくて良いと思う

知識は経験×感性だからだ。

これらの議論を経験し、いろいろな感性を磨き、解を求める過程に意味がある。

平等を目指すことは、人類の大きな進化の糧になるはずだ。

 

ナチュラリズムの考え方を加える

今自分に、人間さえ気持ちよければ良いのか。と問いたい。

人間至上主義の考えではそーゆうものなのかもしれない。

 

人間以外の生き物にとって何が気持ちいいのかはわからない。 

サピエンス全史では穀物や家畜は人間に世話してもらうことによって数が増大し、種として成功したと述べられていたと思う。(ここは少しうろ覚え・・・)

種の成功と個の幸せはまた別問題なので、個を思えば食べられるために育てられるのはかわいそうと感じる。

でも、種として大繁栄したのは確かなのだ

 

これこそ人間至上主義的な発想から来ているのではないかと私は思う

結果として稲穂や牛豚が数の増大したが、米や肉は人間の生活に必要だからそうしただけで、これによって種が成功したというのはいかがなものかと思う。

これはナチュラルな発想ではないだろう。

人間が気持ちよくなるための発想だ。

 

人間が気持ちいいだけで判断せず、地球に心地が良いものかを加えることができるならば良いと思う。

一部の環境問題提起によって、環境破壊はやや遅くなってきているらしい。

それでもまだまだ人間至上主義的な考えからは抜け出せていない。

「人間が便利だから」という理由を優先してしまっていて、環境破壊は進んでいる。

 

地球環境保全は人間が今後の未来を生きるために必要だと思う。

ぜひ、ハラリ氏の考え方から見た環境保全についてを読んでみたい。(ということを日本語で書いても伝わるはずない)

 

 

あとがき

本当に私が思ったことを書き綴っただけになってしまった。

しかも途中までしか読んでいないのに。

ついでに関係ないことまで書いたw

 

できることなら誰かのためになる記事を書いてアクセス数増やしたいものですね。

でもまだそんな器用なことできる経験値がありません。

初心者は質より量という先輩方の言葉を信じて、書きたいことを書いた。

勘違いかなw

 

最後までお読みいただきありがとうございます!

続きを読みながらまた想うことがあったら書きます。